Harun Yahya - Darwinism Refuted - A Short History
歴史的概略
進化論は、古代ギリシャに起源を持つが、科学の世界で注目されるようになったのは19世紀のことである。進化観は、フランスの生物学者ジャン・バプティスト・ラマルクの著書「動物学の哲学」によって最も徹底的に考察されている。ラマルクは、あらゆる生物は、より複雑な方向へ進化するようにそれ自身を導く生命力を与えられている、と考えた。彼はまた、生命体は、ある個体が一生の間に獲得した形質を子孫に伝えていくことができる、とも考えた。たとえば、キリンの長い首は、首の短かった先祖が草の代わりに木の葉を食むようになった時に進化したのだと提示した。
ラマルクのこの進化のモデルは、20世紀半ばに遺伝の法則が発見された時に無効になってしまった。DNAの構造の発見により、生きている有機体の細胞の核が特別の遺伝情報を保有していることが明らかになった。そしてこの情報は個体の一生の間に「獲得された形質」によって変わらないことも明らかになった。つまり、たとえあるキリンが一生の間に高い枝に首を伸ばすことによって自分の首を数センチメートル伸ばすことができたとしても、その形質は子孫には伝わらないだろうということである。要するに、ラマルクの見解は科学的発見によって単純に否定され、無効にされた理論として沈んだ。
しかしながら、ラマルクより二世代後、別の自然科学者によって形成された進化論は、より影響力を有するようになった。この自然科学者がチャールズ・ロバート・ダーウィンであり、彼の形成した理論は「ダーウィニズム」として知られている。
歴史的概略
チャールズ・ダーウィンは、1831年の末、ビーグル号に志願して乗り込み公に組織された5年計画の世界一周の航海に出帆した。若かりし日のダーウィンは、自分の観察した種の多様性、特にガラパゴス諸島にいる多種類のフィンチ類に感化を受けた。これらの鳥のくちばしに差異があるのは、異なった環境への適応の結果だと、ダーウィンは考えた。
この航海の後、ダーウィンは英国の動物市場を訪れるようになった。彼は観察するうちに、雌牛を飼う人がそれを異なる動物につがわせることによって新たな品種の雌牛を生み出すことを知った。このことは、ガラパゴス諸島で観察した、異種のフィンチ類に関する知識と共に、彼の理論の形成に影響を与えた。その見解は1859年に「種の起源」として出版された。この本の中で彼は、生物のあらゆる種は同一の祖先に由来し、わずかな差異が積み重なり時を経て少しづつ進化した結果、今に至ったのであると仮定した。
ダーウィンの理論をラマルクのそれから差異づけたのは、「自然選択」の強調であった。彼の理論によると、自然界には生存のための闘争があり、自然選択とは、強い種すなわち置かれた環境によりよく適応できる種が、生き残ってゆくことである。ダーウィンは以下のような推論を示してみせた。
ある特定種でも、自然で偶発的な変異は生じる。たとえばある雌牛は他の雌牛よりも大きいし、ある雌牛はより暗い色である。自然選択は、環境に適応するのにより有利な形質を選ぶ。かくして、自然選択の過程は、個体群の中でより有利な遺伝子の増大を引き起こす。その結果、集団全体の形質がその地方の諸条件に、より適応したものとなってゆく。こうした変化は、時を経ると新たな種の発生を生じさせるに十分なほど重要な働きをする可能性がある、というのである。
しかしながら、この「自然選択による進化の理論」は、当初から以下に述べるような数々の疑問を生じさせるものであった。
1‐ ダーウィンの言及している「自然にして偶然の差異」とは何か?確かにある雌牛は他の雌牛より大きく、ある雌牛はより暗い色である。しかしこういった集団の個体間の差異が、動物や植物の種の多様性についてどのような説明を与えられるのか?
2‐ ダーウィンは「生物は漸進的に進化してきた」と主張している。この場合、何百万もの種類の「過渡的形態」の生物が生存していることになる。しかし、残存する化石の中には、そのような理論的被造物の痕跡は見つかっていない。ダーウィン自身この問題をかなり考慮し、結局は「さらなる調査がこれらの化石を提供してくれるであろう」という結論に達している。
3‐ 自然選択は、眼や耳や翼のような、複雑な器官をどう説明できるのか? これらの器官が、その中のたった一つの部分が欠けているだけでうまく機能しないことに留意すると、それらが漸進的に進化したと、どのように主張できるのか?
4‐ これらの疑問を考察する以前に、以下のような問題を考えてみよう。最初の有機体、ダーウィンの言う、全ての種にとっての祖先は、どのようにして出現したのか?自然の過程が元々生命のない物に生命を与えることができないとするなら、最初の生命の発生をどのようにして説明するのだろうか?
ダーウィン自身、「私の学説の難点」という章に見てとれるように、少なくともこれらの疑問のいくつかに気づいていた。しかしながら、彼の提供した答えは何ら科学的有効性をもたない。英国の物理学者H.S.リプソンは、ダーウィンのあげた「難点」について次のように批評している。
「種の起源」を読むと、ダーウィンは、しばしば他の人によって指摘されている以上に、自分自身確固たる自信がもてないでいたことがわかる。たとえば『私の学説の難点』という章には、少なからぬ自己不信を示している。私は、物理学者として、特に眼という器官がどのように発生したのかについての彼の解説に興味をそそられる。1
ダーウィンは全ての望みを将来の進歩した科学的研究に託した。それが「学説の難点」を一掃してくれるだろうと期待したのである。しかしながら、彼の期待とは反対に、最近の科学的発見はそれらの難点を増大させただけであった。
生命の起源の問題
ダーウィンは自らの著書において、生命の起源について一度も言及していない。彼の時代の科学は原始的であり、生命体は非常に単純な構造しかもたないものと仮定されていた。中世より、自然発生――生命をもたない物質同士が組み合わさって生命ある有機体を形成するという説――が広範に受け入れられていた。たとえば、食物のくずから虫が出て来ると信じられていたし、小麦からネズミが出来てくるなどと一般的に想像されていた。この説を証明するために、興味深い実験が行なわれた。汚れた布きれの上に小麦をいくらか置いておく。すると、やがてはネズミが現れると信じられていた。
肉の中に蛆虫が現れるという事実も、自然発生の証拠と信じられた。しかしながら少し後になると、蛆虫は肉の中に自然発生的に現れるのでなく、ハエによって、肉眼には見えないほど小さな幼虫の形で運ばれてくるのだと、理解されるようになった。
ダーウィンの「種の起源」が書かれた時代ですら、バクテリアは生命のない物質から発生するのだと広く信じられていた。
しかしながら、ダーウィンの本の出版から五年後、ルイ・パストゥールが長い実験の末に自らの研究の結果を公表し、1884年ソルボンヌでの講演において、ダーウィンの理論の礎石である自然発生説に対して反証を唱えた。「自然発生の学説はきわめて単純な実験により致命的な一撃を受け、けっして回復することはないだろう」とパストゥールは述べた。。2
進化論の支持者達はパストゥールの発見を長い間受け入れなかったが、科学の進歩により細胞の複雑な構造を露わにされ、生命が偶然に出現するという考えは行き詰りに直面した。我々は本書でこの問題について詳しく考察しよう。
遺伝学の問題
ダーウィンの理論を窮地に置いたのは遺伝の問題だった。ダーウィンが自分の理論を発展させた時代に、生物がいかにして自分の形質を次の世代に伝えるのか――つまり、遺伝はどのようにして起きるのか――という疑問は完全に理解されてはいなかった。それゆえに、遺伝は血液を通して伝授されるというような、素朴な観念が信じられ、広範に受け入れられていたのだった。
このように曖昧な諸々の観念のせいで、ダーウィンは自らの理論の基盤を完全に誤った土台に置いたのだった。ダーウィンは自然選択を「進化のメカニズム」であると仮定したが、一つの疑問は疑問のまま残された。どのようにして「有用な形質」が選ばれ、ある世代から次の世代へと伝えられるのか?この点に関してダーウィンは「獲得形質の遺伝」というラマルクの理論を取り込んだ。「偉大なる進化の謎」という本で、進化論を支持する研究者であるゴードン・R・タイラーは、ダーウィンがラマルクに大きな影響を受けているとの見解を表明している。
ラマルクの主張は、獲得形質の遺伝として知られている。ダーウィン自身、当然なが
ら、そのような遺伝は起こり得ると信じている傾向があり、指を失って指のないまま
息子達を育てた男の話を引用している・・・ 彼は、自分ではラマルクから何の考えも
得ていないと言っている。が、ダーウィンが獲得形質の遺伝という考え方をたびたび
弄んでいることを考えると、全く反語である。もしそれが恐ろしい考え方なら、非難
されるべきはラマルクよりむしろダーウィンである。彼は著書の1859年版で、多様化
をひきおこす「外界の諸条件の変化」について言及したが、後になると、この諸条件
は多様化を志向しその志向において自然選択と協同するものとして説明される。年を
経るごとに彼は用・不用の働きにより多くを帰すようになっていった・・・ 「飼育と栽
培の下での動物と植物の多様性」という本を出版した1868年までに、彼はラマル
ク式の遺伝を示唆する一連の具体例を取り上げていた。たとえば、小指の一部を失っ
た男性の息子達が、全員不完全な形の小指をもって生まれたこと、何世代も割礼を受
けた後に生まれた男児達の包皮の長さが縮んでいることなど。3
しかしながらラマルクの説は、前述したように、オーストリアの修道僧にして植物学者であったグレゴール・メンデルの発見した遺伝の法則によって、反証された。それゆえ「有用な形質」の概念は支持されないまま残り、遺伝の法則は、獲得形質が子孫に伝えられないことと、遺伝は或る不変の法則によって起こるものであることとを示した。これらの法則は、種は遺伝によっては変わらないという見解を裏づけるものであった。ダーウィンが英国の動物市場で見た雌牛がいくら子供を産んでも、種それ自体はけっして変わらず、雌牛はいつまでも雌牛のままだということである。
メンデルは、長い実験と観察の末に発見した遺伝の法則を、1865年に論文の中で公表した。この論文は19世紀の終わりまで、科学の学界にいる者の注意を引いただけであったが、20世紀の初めまでにこの法則の真実は科学の学界全体に受け入れられるようになった。このことは、「有用な形質」の概念の基礎をラマルクに置いていたダーウィンの理論の、深刻な行き詰りを意味していた。
ここで我々は一般的な誤解を正さねばならない。メンデルはラマルクの進化のモデルだけではなくてダーウィンのそれにも反論したのであった。そのことは「遺伝学誌」に公表された「進化とダーウィンに対するメンデルの反対」という論文が明らかにしている。
以下その論文から引用する。「彼(メンデル)は『種の起源』の内容に精通していた・・・
そしてダーウィンの理論には反対していたのだ。ダーウィンは、種が世代を重ねるとともに自然選択を経て修正されてゆくと論じたが、メンデルは、神による特別な創造という、古典的な信条の方に与していたのだった。」4
メンデルの発見した法則は、ダーウィニズムを非常に困難な立場に追いやった。故に、ダーウィニズムを支持する科学者達は、20世紀の前4半世紀の間に、進化の異なるモデルを発展させ、そうして誕生したのが「ネオ・ダーウィニズム」だった。
ネオ・ダーウィニズムの葛藤
ダーウィニズムをなんとかして遺伝の科学と調和させようと決意した一群の科学者達が、1941年に米国の地質学会によって催された会合に集った。彼らは長い議論の末に、ダーウィニズムの新たな解釈を生み出す方法に同意し、その後数年にわたって専門家達が自分達の分野を総合し、改正された進化の理論へと導いた。
新たな理論を確立するのに加わった科学者達の中には、遺伝学者のG・レドヤード・ステビンスやテオドシウス・ゾブザンスキー、動物学者のアーネスト・メイヤーとジュリアン・フックスレー、古生物学者のジョージ・ゲイロード・シンプソンやグレン・L・ジェプセン、数理遺伝学者のロナルド・A・フィッシャー卿とセウォール・ライト卿、などなどの人物がいた。5
何人かの科学者達は「遺伝の安定性」(遺伝の恒常性)の事実に対抗するために、「突然変異」の概念を用い始めた。これは20世紀初頭にオランダの植物学者ユーゴー・ドゥ・ヴライが提唱したものだった。突然変異とは、生物の遺伝のメカニズムの中で、よくわからない理由で起こる遺伝子の欠損である。突然変異を経験した有機体は、両親から受け継いだ遺伝情報からは逸脱した、通常ならぬ構造を発達させる。「無作為な突然変異」 の概念は、ダーウィンの理論においては、生きている有機体を進化させるに有利な多様性の起源を解明するものと示唆された。ダーウィン自身はこの現象を説明することができず、ただラマルクに言及することによって直接の説明を避けたのであった。アメリカ地質学会のグループは、ダーウィンの自然選択の仮説に突然変異の概念を加えることによって公式化されたこの新たな理論を、「進化統合論」もしくは「モダン・統合説」と名づけた。その後ほどなくしてこの理論は「ネオ・ダーウィニズム」、その支持者達は「ネオ・ダーウィニスト」と呼ばれるようになった。
しかしまだ深刻な問題が一つあった。確かに突然変異は生きている有機体の遺伝情報を変えるのだが、この変化は常に当該の生物にとって不利に働くのである。全ての突然変異は、形の損なわれた、弱い、もしくは病気の個体として観察され、その有機体を死に至らしめる。ネオ・ダーウィニスト達は、生きている有機体の遺伝情報を改良する「有利な突然変異」の実例を発見しようと試みて多くの実験と観察とを行なった。数十年にわたって彼らは、ショウジョウバエやその他の種の生物で突然変異の実験を行なった。しかしながらどの実験でも、生命体における遺伝情報を改良する突然変異は見られなかった。
今日、突然変異の問題は、依然としてダーウィニズムにとっての行き詰りを示している。自然選択の理論が突然変異を「有益な変化」の唯一の源泉と見なすという事実にもかかわらず、実際に有益な(つまり、遺伝情報を改良するような)突然変異は未だ観察されていないからである。次の章で我々は、この問題を詳細にわたって考慮する。
ネオ・ダーウィニストにとってのもう一つの行き詰りは、化石の記録から来ている。ダーウィンの時代ですら、化石はその理論にとってあなどれない障害だった。ダーウィン自身「過渡的な種」の化石が欠如していることを認め、今後の研究によってこの失われた過渡的携帯の証拠が与えられるだろうと予言していた。しかしながら、古生物学者達のあらゆる努力にもかかわらず、化石の記録 は理論にとって深刻な障害であり続け、「退化した器官」や「個体の反復発生」や「遺伝の相同性」のような概念が、新しい科学的発見に照らして見た時に、一つ一つ、全ての意味を失った。これらの問題は本書の残りの章で、もっと深く扱ってゆくことにしよう。
危機にある理論
ここまでは、ダーウィニズムが最初に提唱された時代からそれの陥った行き詰りの概略を述べてきた。今からは、この行き詰りの巨大な局面の分析を始める。本書のねらいは、進化論が、多くの人々が自身そう思い他の人にもそう思わせてきたように、議論の余地のない科学的真実ではないことを示すことにある。それどころか、進化論を集団遺伝学、比較解剖学、古生物学、分子生物学、生化学といった広範な領域における科学的発見と比較してみた場合、紛れもない矛盾が見られる。要するに、進化論は「危機」にあるのである。
Michael Denton
オーストラリアの生化学者にしてダーウィニズムの批判者として有名なミカエル・デントン教授はその著書「進化:危機にある理論」(1985)において、科学のさまざまな部門の観点から理論を吟味し、自然選択の理論は地球上の生命についての説明を提供するところからはほど遠いと結論づけている。6 批判を述べるデントンの意図は、別の見解の正しさを証明することではなく、単にダーウィニズムを科学的発見と比較することである。ここ20年の間、多くの科学者達が、ダーウィンの進化論の有効性を問う重要な著作を数々出版してきた。
本書ではこの危機について検討する。読者の中には、以下に具体的な証拠を提供されても自分の立場を変えようとはせず、進化論を支持し続ける方もおられるだろう。しかしながら、そのような読者にとっても本書を読むことは有用である。なぜなら本書は、彼らの信じている理論の置かれた真の状況を、諸々の科学的発見に照らして考えることに役立つだろうから。
1 H. S. Lipson, "A Physicist's View of Darwin's
Theory", Evolution Trends in Plants, cilt 2, No. 1, 1988, s. 6.
2 Sidney Fox, Klaus Dose. Molecular Evolution and The Origin
of Life. New York: Marcel Dekker, 1977. s. 2
3 Gordon Rattray Taylor, The Great Evolution Mystery, London:
Abacus, 1984, s. 36- 41
4 B.E. Bishop, "Mendel's Opposition to Evolution and to Darwin,"
Journal of Heredity 87 (1996): s. 205-213; ayrýca bkz. L.A. Callender, "Gregor
Mendel: An Opponent of Descent with Modification," History of Science 26 (1988):
s. 41-75.
5 Michael Denton, Evolution: A Theory in Crisis. London: Burnett
Books, 1985
6 Michael Denton, Evolution: A Theory in Crisis, Burnett Books,
London, 1985.