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全ての物事は見識と秘められた目的に則り創造されている。信者には、この秘められた目的とそして幸福が保障されている。何故ならアラーの神は信者の側にいらっしゃるし、信者の期待に決して背いたりしないからだ。
たとえ信者であっても、人生において遭遇する不幸な出来事に嫌な気持がするのは否めないかもしれない。しかし、不幸な出来事-例えば、信じないもの達が企んだ陰謀などは最終的に信じる者にとっていい結果に終わるのだということを信者は心に留めておくべきである。遅かれ早かれアラーの神が恩恵を施して下さるはずだし、
従って信者は全ての事に必ず良いことがあると確信すべきだ。
コーランにおいてもこのような状況に対するいくつもの例えが記してある。例えば
使徒ヨセフ(ヤサフ)の人生に関するものは顕著なものだ。ヨセフが子供の頃、彼の実の兄弟どもの陰謀によって井戸から逆さまに投げ捨てられたが通りかかったものによって救い出された。その後、無実にも関わらず彼は陰謀に填められて非難されそして収監されてしまった。信仰のない人だったら、こういう話を聞いたらなんて不幸な出来事なんだろうと思うかもしれない。しかしヤサフはこういった逆行にも関わらず、「不幸な出来事でさえもアラーの神はご存知であるし、必ず事態は良くなるのだ」といつも心の中で信じていた。そして、この信念が実際正しかったことが証明された。アラーの神がこの不幸な状況を良い方向に変えて下さり、晴れて彼は囚われの身から解放され、じきにその土地の統治者の中の一人となったのだ。
使徒ヨナの場合も同じような状況であった。彼は荷を積んだ船の中に逃げ込んで自分の場所を確保しようとしたが、くじ引きに当たってしまい海の中に投げ込まれることになってしまった。くじ運が悪かったばっかりに彼は大海に投げ捨てられ、そして大魚に飲み込まれてしまった。コーランでは、使徒ヨナがアラーを讃えたことにより彼が助け出され、100,000人以上の男女が住んでいる地域に遣わされたと説いている。
“彼がアラーの神を賛美する者の仲間でなかったら、復活の日が来るまで大魚の腹の中に留まっていなければならなかったが、彼が病気の時に(大魚の腹の中で)、岸辺にその体を投げ上げてやった。そして、彼の近くに植物を植えてやり十数万人もの人間のもとに遣わした。皆よく信仰したので、彼らに現世を楽しませてやった。”
(コーラン37章:143-148節)
コーランの教えにあるこれらの例のように、不幸そうに見える出来事も信者にとっては本当の不幸ではないことがわかるだろう。アラーを信頼しアラーだけを頼りに助けを求めればそれを後悔することなどなにもないのだ。アラーの神は難儀を私達に与えるが、それは只単に私達に対するテストであり、信者の忠誠心と信仰心を補強するためなのである。
信じない者には、それと全く逆のことが起こるのも本当である。この現世において彼らにとって良いことなんてひとつもないのだ。彼らにとっての嬉しい事や楽しい事は実際不幸な事であるし、それらの事がより一層彼らの来世に課せられる罰に拍車をかけるのだ。彼らが達成した不正な物事は全部記録されていて、結局それらは彼らの責任として咎められるのだ。このことをコーランにおいてアラーの神はこう説いている:
“アラーの神が授けてやったものを貪欲に自分らだけで抱え込んでいる者どもに、奴らがしていることが良いことだなんて思わせるな。その行動は彼らに災いになってかえってくる;ケチったものが、復活の日に首輪になって奴らの首に巻きついているだろう。天も地もアラーの神に属し、貴方方がすることは何から何までお見通しであるのだ。”
(コーラン3章:180節)
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1999年発行のインドの出版物“GOODWORD PRESS”
掲載。ハールン・ヤハウャ著者の“コーランの道徳的価値”
から抜粋。
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